第⑤話 吾輩が求める“愛のこもった一皿
吾輩は猫である。名はキキ猫。
食とは、単に空腹を満たす行為ではない――そう感じたのは、
ある日の夕暮れのことだったにゃ。
その日、主(あるじ)は珍しく忙しげで、
ごはんの支度を忘れていたらしい。
吾輩はいつもの時間にカリカリ皿の前でスタンバイしておったが、
待てど暮らせど、あの“カリカリ音”は聞こえぬ。
ようやく台所に立った主は、冷蔵庫をごそごそとあさり、
「あっ、ちょっと待ってて」とつぶやいた。
やがて始まる、包丁のトントンという音、
じゅわっと炒める香ばしいにおい、
湯気の立つ炊きたてごはん――
吾輩は、そこで気づいたのだにゃ。
ヒトの食事には、“手間”という名の気持ちがこもっておることに。
主はその夜、肉じゃがを作っていた。
「これ、お母さんの味なんだよね〜」と呟きながら、
丁寧に盛り付けをしていた姿が、妙に印象に残っているにゃ。
吾輩は思った。
吾輩のカリカリには、確かに栄養も味もある。
ちゅ〜るにはうま味が詰まっている。
でも、そこには**“主の気配”があまり感じられぬ**のだにゃ。
「誰かのために作るごはん」
それは、レシピや材料よりも、“そのヒトのことを思う気持ち”が
一番のスパイスになっているのではなかろうか。
吾輩にも、たまに“手づくり風ごはん”をくれる日がある。
あったかいお湯でカリカリをふやかしたり、
ささみをほぐして乗せてくれたり。
あのときだけは、カリカリがちょっと違う味に感じられるにゃ。
味ではなく、気持ちが乗っている。
そう、吾輩が求めているのは、“主の心”のこもった一皿なのにゃ。
「今日は疲れたね」「がんばったね」
そんな言葉を添えて出されたごはんは、
何よりもあったかく、しあわせな味がする。
ヒトも猫も、きっと同じにゃ。
“何を食べるか”より、“誰がくれたか”。
それが、食事を“行為”から“喜び”に変えるにゃ。
主よ、たまには吾輩の皿にも、
ほんのひと手間をお願いするにゃ。
煮干し1本でも、気持ちを添えてくれれば、
吾輩はそれを“ごちそう”と呼ぶにゃ。
🐾 まとめ:“気持ち”のこもったごはんは、最高のごちそうにゃ
- ヒトの食事には、「誰かのために作る」という優しさが詰まってるにゃ
- 猫のごはんにも、ひとさじの心を加えてくれると、もっと幸せにゃ
- 食とは、愛を伝えるカタチのひとつ――それを吾輩は、知ってしまったにゃ